36話 遠い季節②

「あのさ、横内。弁当の代わりに、頼みがあるんだけど」

 できるだけ、慎重に切り出してみる。

「なんだよ」

「キスさせてほしい」

「はあ!?」

 思いきり、目を見開かれた。

「俺は相良と、別れてねえぞ」

「黙っとけば、してもバレないって」

「そういう問題じゃなく」

 

 滅茶苦茶なことを言っている自覚は、あった。でも、今なら。このタイミングなら。

 押せば相良さんを、超えられるかもしれない。

 

「一回だけ!」

「何度もされて、たまるか」

「一瞬だから。な?」

 しつこくすると、沈黙が流れた。

 ため息が聞こえてくる。

「……まあ、口にじゃなければ」

「サンキュ」

 横内は、仕方ねえなと呟いて、赤みのさした頬を向けてくる。

 

 手が汗ばんできた。突然、ドキドキし始める。

 

 ――恋に発展しそうな、予感がする。

 

 俺はずっと、恋愛感情や、誰かとセックスしたい気持ちが理解できなかった。その両方を一括ひとくくりにする考えは、益々謎だった。

 だけどもう、周りから変な目で見られなくなる。正しく世間と繋がれる。きーさんに、迷惑をかけることもない。

 これから先、逃げ腰の恋だって、させるものか。

 

 横内の唇が、視界に入る。

 遠くから、雨の降る音が聞こえてきた。

 傘のシャフトの傾く幻を、見たような気がした。

 

 

 『きーさんの柔らかい唇の感触が、好きです』。

 

 ついた嘘を思い出したら、急に現実へ引き戻された。

 

 ズルして、相良さんに勝っても。

 恋愛感情が芽生えても。

 きーさんと過ごした時間は、二度と戻ってこない。

 

 そっと、横内から離れた。

 

「……森?」

「やっぱりキスは、お前たちが別れたら、する」

「じゃあ一生、無理だな」

 不思議と惜しい気持ちには、ならなかった。

 それどころか、きーさんと別れてしまったら、全てが無意味に感じた。

 俺は適当に笑い、パンをかじる。横内も食事を再開する。

 

 コイツは特別な奴だ。でもきーさんは、もっと特別だったみたいだ。いて当たり前、なんかじゃない。いつの間にか、毎日を心地よく過ごすのに必要不可欠な存在になっていた。

 

 味のないパンを、呑み込む。

 横内の視線と、ぶつかった。

 感情の読み取りにくい顔は、シロの表情と重なる。

 殺風景な部屋が、脳裏をよぎった。それから赤や青の鈴がついた鍵。甘すぎる紅茶と、苦すぎるコーヒー。俺ときーさんの、笑い声で満たされた空間。

 

 どれもが、もう遠かった。