「あのさ、横内。弁当の代わりに、頼みがあるんだけど」
できるだけ、慎重に切り出してみる。
「なんだよ」
「キスさせてほしい」
「はあ!?」
思いきり、目を見開かれた。
「俺は相良と、別れてねえぞ」
「黙っとけば、してもバレないって」
「そういう問題じゃなく」
滅茶苦茶なことを言っている自覚は、あった。でも、今なら。このタイミングなら。
押せば相良さんを、超えられるかもしれない。
「一回だけ!」
「何度もされて、たまるか」
「一瞬だから。な?」
しつこくすると、沈黙が流れた。
ため息が聞こえてくる。
「……まあ、口にじゃなければ」
「サンキュ」
横内は、仕方ねえなと呟いて、赤みのさした頬を向けてくる。
手が汗ばんできた。突然、ドキドキし始める。
――恋に発展しそうな、予感がする。
俺はずっと、恋愛感情や、誰かとセックスしたい気持ちが理解できなかった。その両方を一括りにする考えは、益々謎だった。
だけどもう、周りから変な目で見られなくなる。正しく世間と繋がれる。きーさんに、迷惑をかけることもない。
これから先、逃げ腰の恋だって、させるものか。
横内の唇が、視界に入る。
遠くから、雨の降る音が聞こえてきた。
傘のシャフトの傾く幻を、見たような気がした。
『きーさんの柔らかい唇の感触が、好きです』。
ついた嘘を思い出したら、急に現実へ引き戻された。
ズルして、相良さんに勝っても。
恋愛感情が芽生えても。
きーさんと過ごした時間は、二度と戻ってこない。
そっと、横内から離れた。
「……森?」
「やっぱりキスは、お前たちが別れたら、する」
「じゃあ一生、無理だな」
不思議と惜しい気持ちには、ならなかった。
それどころか、きーさんと別れてしまったら、全てが無意味に感じた。
俺は適当に笑い、パンをかじる。横内も食事を再開する。
コイツは特別な奴だ。でもきーさんは、もっと特別だったみたいだ。いて当たり前、なんかじゃない。いつの間にか、毎日を心地よく過ごすのに必要不可欠な存在になっていた。
味のないパンを、呑み込む。
横内の視線と、ぶつかった。
感情の読み取りにくい顔は、シロの表情と重なる。
殺風景な部屋が、脳裏をよぎった。それから赤や青の鈴がついた鍵。甘すぎる紅茶と、苦すぎるコーヒー。俺ときーさんの、笑い声で満たされた空間。
どれもが、もう遠かった。