18話 きーさんのいる日常①

 翌日。きーさんは仕事始めだった。

 俺は、あらかじめ渡されていた合鍵で、家へあがる。

「お、お邪魔します」

 番犬代わりのシロは、玄関で虚空を見つめていた。

 

 電気をつける。

 鍵にぶらさがった青い鈴が、手元でチリンと鳴った。思わず息を呑む。

 いくら生活感がなくても、ここは他人の家だ。一人でいるのは、なんだか緊張する。

 振り返ってシロに、愛想笑いを浮かべてみた。当然、なんのリアクションもない。

 

 キッチンへ向かうことにする。スーパーで買ってきた食料を、流しの脇に置いた。

 ふと思う。

 何故きーさんは、合鍵を持っていたのだろう。

 客用の布団だって、そうだ。荷物が必要最小限しかない家に、存在するっていうのは、つまり――。

 

「特別な誰かが以前、出入りしてたんだろうな」

 もしかすると、一緒に暮らしていたのかもしれない。

 

 ふうん、と声にしてコートを脱いだ。

 リビングの窓からは、西日が差し込んでいる。

 

 洗面所で手を洗った。炊飯器に、米をセットする。野菜の泥を落とすと、ほうれん草を茹でた。かぶは葉を刻んで、残りを薄く切る。ブロックの豚肉も、包丁でばらす。

 

 途中で一度、休憩を入れた。

 コタツの上に顎を乗せ、考えてみる。

 もし俺がきーさんに恋をしたら、過去の交際相手を気にして、落ち込んだりするだろうか。

 

 あまり、ピンと来ない。

 

 料理を再開した。

 今日のメニューは、豚の角煮にほうれん草のナムル、かぶの煮物だ。葉の部分は、卵と合わせて味噌汁に使うつもりでいる。バランスのいい食事なのかは、分からない。スーパーで特価扱いの材料を揃えて、導き出した献立だ。

 

 料理をすることはあっても、同時に一人で何品も作るのは初めてだった。手際は、とても悪い。その上、長く休憩を挟んだからだろう。完成したときには、二十時を過ぎていた。

 

 

「きーさん、おかえりなさい」

 扉の開く音がしてキッチンから顔を出すと、疲れのにじんだ表情が、ぱっと輝いた。

「ただいま」

 乱暴に靴を脱ぎ捨て、近づいてくる。

 なんだか犬みたいだ。

「やばい! このシチュエーションは、やばい!」

 興奮気味に叫ばれた。余程、空腹だったのだろう。

「陸君に、抱きつきたい!」

「それより、手洗いうがいしてください」

「うん!」

「じゃあ、帰りますね」

「え?」

 頬を上気させたまま、彼は動きを止めた。

 

「俺も、腹減ったんで」

「一緒に食べるのかと、思ってた」

「きーさんの夕飯、作りに来ただけです」

「俺は君を家政婦にしたくて、付き合ったわけじゃないよ」

 表情が、急に厳しくなった。

「分かってます。食材費をもらって、俺が勝手にやってるだけです。きーさんは、なにも気にしなくていいですから」

「でも――」

「それに、家族が待ってます。食事は、理由がなければ、自分の家で摂るものです」

 言い切ると、きーさんは肩を落とした。

「……高校生なら普通は、そっか」

「すみません」

 

 彼が『普通』という言葉を使うのは、珍しい。違和感を覚えながらも、俺はただ謝ることしかできなかった。