翌日。きーさんは仕事始めだった。
俺は、あらかじめ渡されていた合鍵で、家へあがる。
「お、お邪魔します」
番犬代わりのシロは、玄関で虚空を見つめていた。
電気をつける。
鍵にぶらさがった青い鈴が、手元でチリンと鳴った。思わず息を呑む。
いくら生活感がなくても、ここは他人の家だ。一人でいるのは、なんだか緊張する。
振り返ってシロに、愛想笑いを浮かべてみた。当然、なんのリアクションもない。
キッチンへ向かうことにする。スーパーで買ってきた食料を、流しの脇に置いた。
ふと思う。
何故きーさんは、合鍵を持っていたのだろう。
客用の布団だって、そうだ。荷物が必要最小限しかない家に、存在するっていうのは、つまり――。
「特別な誰かが以前、出入りしてたんだろうな」
もしかすると、一緒に暮らしていたのかもしれない。
ふうん、と声にしてコートを脱いだ。
リビングの窓からは、西日が差し込んでいる。
洗面所で手を洗った。炊飯器に、米をセットする。野菜の泥を落とすと、ほうれん草を茹でた。かぶは葉を刻んで、残りを薄く切る。ブロックの豚肉も、包丁でばらす。
途中で一度、休憩を入れた。
コタツの上に顎を乗せ、考えてみる。
もし俺がきーさんに恋をしたら、過去の交際相手を気にして、落ち込んだりするだろうか。
あまり、ピンと来ない。
料理を再開した。
今日のメニューは、豚の角煮にほうれん草のナムル、かぶの煮物だ。葉の部分は、卵と合わせて味噌汁に使うつもりでいる。バランスのいい食事なのかは、分からない。スーパーで特価扱いの材料を揃えて、導き出した献立だ。
料理をすることはあっても、同時に一人で何品も作るのは初めてだった。手際は、とても悪い。その上、長く休憩を挟んだからだろう。完成したときには、二十時を過ぎていた。
「きーさん、おかえりなさい」
扉の開く音がしてキッチンから顔を出すと、疲れの滲んだ表情が、ぱっと輝いた。
「ただいま」
乱暴に靴を脱ぎ捨て、近づいてくる。
なんだか犬みたいだ。
「やばい! このシチュエーションは、やばい!」
興奮気味に叫ばれた。余程、空腹だったのだろう。
「陸君に、抱きつきたい!」
「それより、手洗いうがいしてください」
「うん!」
「じゃあ、帰りますね」
「え?」
頬を上気させたまま、彼は動きを止めた。
「俺も、腹減ったんで」
「一緒に食べるのかと、思ってた」
「きーさんの夕飯、作りに来ただけです」
「俺は君を家政婦にしたくて、付き合ったわけじゃないよ」
表情が、急に厳しくなった。
「分かってます。食材費をもらって、俺が勝手にやってるだけです。きーさんは、なにも気にしなくていいですから」
「でも――」
「それに、家族が待ってます。食事は、理由がなければ、自分の家で摂るものです」
言い切ると、きーさんは肩を落とした。
「……高校生なら普通は、そっか」
「すみません」
彼が『普通』という言葉を使うのは、珍しい。違和感を覚えながらも、俺はただ謝ることしかできなかった。