基本は三十分。ときどき、半日。きーさんと過ごす時間は、少しずつ積もっていった。
一緒にテレビを観たり料理したり、喋って笑って、ボーッとする。携帯で話すのも、しょっちゅうだった。
彼が日常に溶け込むほど、思う。もし恋人じゃあなくなっても、変わらない関係を続けていきたい。
俺も相良さんのように、きーさんと、なんだって共有できる間柄になりたかった。
「あなたの、『靖』っていう下の名前が好きです」
二月一日。俺は電話越しに、気持ちを伝えた。ずっと言うタイミングを見計らっていた、きーさんの『好ましく感じるところ』だ。
彼とは知り合って、一ヶ月経つ。そろそろ、口にしていいような気がした。
一瞬、沈黙が流れる。
予想していた通りの反応だった。『靖』と呼ばれたくないのが、なんとなく分かった。
「俺は自分の名前、好きじゃないな」
「どうしてですか?」
きーさんは、面倒な人だ。
例えば体調を気遣う言葉を心待ちにしながら、スティックシュガーを握りしめている。
浮気のルールを決めようとすれば過去を振り返り、自分だけ見てほしかったと、露骨に落ち込む。
名前が嫌いとわざわざ声に出すのは、話を聞いてほしいからだ。
「うーん……。苦手な人に呼ばれる機会が多いせいか、なんかね」
太いため息が、耳に届いた。
もしかすると、顔を突き合わせたときに、尋ねるような内容だっただろうか。
気づいたけれど、遅かった。
彼は静かに語り始めた。『苦手な人』は、何人かいるらしい。
話の初めに登場したのは、両親だった。教育熱心で、常にプレッシャーをかけられたという。けれど期待に応えきれず、彼はいつしか勉強を放棄した。すると両親は、考えを改める。『資産家の娘と結婚して、楽させてもらえばいい』。
そこで仕方なく、自分はゲイだとカミングアウトすると、絶縁されたそうだ。
話の中には元彼も、複数登場する。大抵、相手の心変わりがきっかけで、別れ方も散々だ。同棲直前、金を持って逃げた男もいる。
きーさんは言った。
「元彼どころか自分の痕跡さえ、家に残したくないんだ」
そのくせ
「シロにだけは、俺の全てを覚えていてもらいたい」
とも言う。
本当に、面倒な人だ。元彼との思い出を消し去りたいなら、引っ越せばいい。布団や合鍵なんか捨ててしまえばいい。
なのに。
聞いていて、もどかしくなってきた。
人を恨むだけなら、誰でもできる。けれど、きーさんは自分と向き合って、葛藤している。
彼の持つ『大人の余裕』は、不器用な心で作られたものだった。
あどけない、少年のような笑顔が脳裏に浮かぶ。
もっと、彼のことを大事にしよう。
自然と、そう思った。
「きーさんが、どうして『普通はそっか』なんて口にしたのか、分かった気がします」
待っている家族のところへ帰ると伝えたとき、珍しく意見をすぐ、引き下げたのは深い意味があった。
同棲に、消極的だったのも。
なら、部屋をコーディネートするなんていう提案に、嫌な顔をしなかったのだって、なにか思うところがあるからだろう。
例えば、新しい自分に生まれ変わりたい、とか――。
「よく、覚えてるなあ」
「俺、記憶力は自信あるんです」
「君の謙遜しないところ、好きだよ」
柔らかな笑い声が、耳の奥に流れ込んでくる。つられて俺まで、頬を緩めていた。
「話を聞いてくれてありがとう。陸君のお陰で、少し気持ちが軽くなった」
俺は、恋愛感情を理解できない。彼氏の性欲を、満たせもしない。『事実』を打ち明ければ周りから、彼ともども、変な目で見られるだろう。だけど。精神的に支えられる部分だって、あるはずだ。
恋人の役に立てる。
そう思うと、嬉しくて仕方なかった。
だから、しばらく家に来ないでほしいと言われたときは、本当にショックだった。